10点中9点。
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2017/03/27
- メディア: 単行本
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本書の第一章では「私が何ごとかをなす」という表現について考察されている。
私が歩く。と表現するとき、私は歩こうという意思を持って歩くという行為を行っているように思える。
しかし、そう単純な話ではないと著者は言う。
体には200以上の骨、100以上の関節、400の骨格筋がある。
それらが精密な連係プレーを行うことによって歩くことができる。
私はその一つ一つを意志によって動かしているわけではない。
あそことあそこの関節を同時に曲げつつその0.5秒後にあの関節を伸ばしてといったことを私がずっと意識して歩いているわけではない。
どのようにして起こっているのかわからないことに対して自分の意志によってなしているという表現はしっくりこない。
それよりは「私のもとで歩行が実現されている」という表現のほうが実態に即しているのではないか。
私は歩くという表現は能動態に属する。
しかし、先ほど見たように能動とは言い切れなかった。
能動態でないのであれば対する受動態なのか。
私が歩くという表現は私は歩かされているという表現に変えればよいのか。
明らかにおかしい。
ここで私たちは途方に暮れてしまう。
なぜなら私たちは態は能動態と受動態しかないと学んできたからだ。
しかしここでフランスの言語学者、エミール・バンヴェニストの研究が紹介される。
『実は多くの言語では能動態と受動態という区別を知らない。
それどころか、この区別を根底に置いているように思われるインド=ヨーロッパ語族の諸言語においても、かなり後世になってから出現した新しい文法規則である。
かつては能動態とも受動態とも異なる「中動態」という態が存在し、能動態と中動態が対立していた。』と。
思考の根底にある言語の文法規則の非常に大きな分類が、別の可能性があり、実際にかつては異なる分類であったというのは驚くべき事実であり、実に興味深い。
二章以降様々な研究を引用しその詳細へといざなってくれる。
中動態とはどういったものなのか。
それはどういう変遷をたどり、そして姿を消したのか。
言語学的内容が詳細に考察されており非常に面白い。
しかしそれだけではなく、本書の根底に流れるテーマは意志とは何か、自由とは何かという問題を考察することにある。
そして自由というものに対して一定の解答も提出されている。
それらができるだけ平易に一から積み上げるように書かれており、単純に読んでいてめちゃくちゃ面白い一冊だった。