yshkn’s blog

島根に長期出張中の文系卒ITエンジニアの日常

勉強の哲学 来るべきバカのために を読んだ

10点中10点 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

初の10点満点が出てしまった。
当分出すつもりはなかったのに。
それほど面白く、自分の興味関心にも合致した内容だった。
というか自分が長い間あれこれと考えていたことをよりメタの視点で簡潔に言語化されており、「やられた」という思いが強い。

 

 以下の文章は「勉強の哲学」の解説を主目的としているが、僕自身の考えが多分に含まれており、その境界が見えづらくなってしまっている。

引用を明示している部分以外は本書と多分にずれがあるかもしれないことを断っておきます。

本書の解説として明らかに誤っている部分があればぜひご指摘ください。

 

勉強とは何か、勉強をするとどうなるのか、についてさまざまな種の勉強を包摂した論を展開している。
本書では勉強を特段にポジティブな概念として論じていない。
勉強すると、今の自分に新しい知識やスキルが身に付きパワーアップする"のではない"と書いている。
深く勉強するとノリが悪くなる、キモくなると主張している。
 
勉強とは今の世界から別の世界へ移動すること
今の自分の当たり前とか普通から離れ、キモくなり、別の当たり前や普通に属する。
それが勉強をするということである。
だから、今の自分の環境・世界が十分に心地よい人は勉強する必要はない。
ただ、今の世界がつらい人、どうしても別の世界に入り込む必要が出てきた人、別の世界の片鱗のようなものを感じ、それを深く理解したいと思った人に向けてもう少し具体的に勉強するとはどういうことなのか、どのようにすればよいのかを解説している。
そうやって別の世界の勉強を進めると、今まで常識(不変の真理くらい強い意味での)と思っていたことが実は今までの環境特有の奇習であったことがわかり、また今までの環境からは奇習に見えることが常識的なことだと学んでいく。
それが重要な体験であり、その体験を実感する糸口として、「言葉」に着目することを薦めている。

 

ここで著者はヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論を参照し「言葉」には明確な意味はないと説く。
国語辞典には意味として別の言いかえが並んでいるがどこまで調べても根源の意味などにはたどり着かず堂々巡りするだけだ。
根源的な意味などというものはそもそも存在せず、あらゆる話し言葉や書き言葉はその世界で使われている言葉の使われ方を真似しているだけである。
だからこそ全く同じ言葉でも異なる世界では異なる意味を持つことがあったり、同じことを全然別の言葉で表したりする。
言葉は一つの世界に居続ける人にとってもっとも大きな常識の一つだ。
あまりにも常識的過ぎて疑う余地のない空気のようなものである。
しかし、別の世界に移るといままで疑いようのなかった言葉と異なる使われ方がなされていて、すごい違和感を覚える。
 
いままで常識だと思っていた、また、その世界に居続けている人にはいまでも常識だと思っていることのいくつかはその狭い世界独特の慣習であったことに気付く。
そして同時にその違和感は自分が次に入っていこうとしている世界に居続けている人には疑う余地のない常識であり、それがその世界特有の慣習であることを知らない。
ここで勘違いしてはいけないのが、別にそこに気付いたからといって気付いていない人より偉いというわけではない。
入っていこうとしている世界で上位の位置に行こうと思うと基本的にその世界に最適化していくことが正攻法だ。
「お前らが常識だと思っているこれは別の世界では奇習であり、そのことに俺は気付いている」なんて自慢しても「知るか」と言われるのがおちだ。
ではその気づきは全くの無意味なのか。
 
そうではない。
 
まずもっとも重要なのは、自分たちの当たり前の常識の多くが、ほかの世界から見ると奇習であり、なにも絶対的なものではないということの実感となることだ。
それは地理・歴史を勉強すればわかることだ。
鎌倉時代の人々も、江戸時代の人々も今の常識とは大きく異なる常識の中で生きていた。
アメリカの人やアフリカの人も日本とは異なる常識で生きている。
200年後、1000年後の歴史の授業では、私たちの暮らしは、今私たちが江戸時代の暮らしを勉強するのと全く同じように受け止められているだろう。
だが、学校でほとんど強制的にやらされしかも一つ一つはすごく浅く勉強するのでほとんどの人には深い実感としては残らない。
しかし、自分の意志で一つの世界に深く潜りんでいけばいやでも実感させられることになる。
 
また、その世界の特殊性はその世界の根源となるものへの理解につながることがある。
なぜその世界ではその特殊な慣習が常識となったのか、それを深堀りすることでその世界の根底に流れる本質の一端を理解できる可能性がある。
 
そして、イノベーションの王道手法、「別の世界の手法をパクってその世界に当てはめる」、が使えそうなところを見つけられる可能性もある。
上記の手法は今までのイノベーションのかなりのものを説明できる非常に優秀な手法だが、何でもかんでも別の世界の新しいイノベーションを持ってくればいいというものではない。
それではほとんどが失敗する。
お互いの世界の特殊性を理解し、本当に応用できそうなイノベーションは何か、どのようにカスタマイズすればこっちの世界にフィットするのか、を見つけることにも先ほどの気づきが活かせられる可能性がある。
 
そういうわけで、表面的な気づきそのものには価値はないが、それを深掘りしていくことができれば、大きな価値を生み出せる可能性を秘めているので、その気づきを大切にすることに意味があると言えるだろう。
 
じゃあそうやって入り込む世界をどうやって見つけるのか
本書ではその足掛かりとして、アイロニーとユーモア(ツッコミとボケ)を挙げている。
 
アイロニーは一般に皮肉と訳されるが、本書ではその場の空気、常識を疑う言説を発することとしている。
芸能人の不倫が発覚し、「最低」「イメージ台無し」と批判的な会話がなされているときに「不倫って悪なの?」という発言をアイロニー発言の例としている。
その場で前提とされているものをちゃぶ台返しし、より根源的な問題を問う。
狭い世界の外に出る効果的な方法だ。
しかし、アイロニーには罠があるという。
より根源的な問題へと際限なく問い続けることを誘発し、その場が成り立たなくなるという罠だ。
さっきの例でいうと愛とは何か、善悪とは何か、とさらに問い続け、その回答にもより根源的な問いをし続けるということが起こる。
しかし、言語ゲームの話でみたように本当の意味などというものはなく無限に言葉を言い換えてループしてどこへもたどり着くことはない。
 
次にユーモア(ボケ)が挙げられているが、ユーモアはさらに「拡張的ユーモア」と「縮減的ユーモア」に分かれる。
 
拡張的ユーモアの例として仕事の相談をしている最中に、「それって野球でいうと○○だよね」と話しの要素を抽出し、同じような要素を持つ別のものへと話を転換するようなことだ。
自分がこだわっていたことが別の世界のこととして見るとしょうもないことに見えたりし、見えなかったものが見えたりする。
しかし、拡張的の名の通り、際限なく別の話に転換されて元の話しが消え去ってしまう罠がある。
 
縮減的ユーモアは、本書の例を丸々引用しよう。

誰かが『ドラゴンボール』を「懐かしいよねー」と言い始める。どのキャラが好きだったとか、思い出の場面とかテンポよく話が流れていた。ところがその途中で、こんな発言が始まる。「ヤムチャといえば”負けキャラ”だよね、悟空に負けたときはどうでこうで、それから何々でも負けて、あと天下一武道会天津飯に負けたときは、あの闘いは・・・・・・」

親睦を深めるためのドラゴンボールの話題の中で、とにかくドラゴンボールのうんちくを延々と繰り広げてしまう。自分のこだわりについて享楽的に語り続けてしまうことを縮減的ユーモアとしている。
 
上記の3つの方法を組み合わせ、また、さらに前に述べた言葉に注目していくことで、飛び込む世界、そしてその飛び込み方を見つけていく
ここで著者はものすごく日常的なボヤキから飛び込む世界と飛び込み方を例示している。
ここでもそのボヤキを丸々引用する。

⑴仕事がずっと忙しい。休みの日もつぶれてしまう。頑張っていると思う。雑務も多いし、何とかこなしてるだけで時間が過ぎていく。ひと通りのことはできるようになったから、もっと大きな仕事をしたいけど、この状況でがんばり続ければ、いつかタイミングが来るんだろうか。給料も、今はこのくらいで我慢するしかないんだろうか。
 
⑵三十歳前後、アラサーの女性の集まりで、結婚の話題になる。先に結婚したほうが勝ちみたいな空気。自分はこれまで結婚にこだわらず、楽しく仕事をしてきたはずなのに、「外圧」を感じて、どうしたいのかわからなくなってきた。そんなにモテる方じゃない、というかモテとか気にしないできたのだけれど・・・・・・・。やっぱり結婚するもんなのだろうか。
 
⑶大人気アニメ映画『君の名は。』を観に行って、すごく感動した。泣いてしまった。映像がきれい。RADWINPSの曲もいいよね。その後、SNSを眺めていたら、悪く言っている意見があった。「売れるためにあざとく狙っている」だとか。自分は感動したからいいんだけど。 

いずれも生活の中から出た、同じようなことを考えている人がいくらでもいそうなボヤキだ。
このような生活の中から自分が関心がある問題について、アイロニーとユーモアを用いて「抽象的で堅いキーワード」を見つけられればどの世界へ勉強して入っていけばいいかがわかる。
なぜ「抽象的で堅いキーワード」かというとそういうワードはまず間違いなくネットでいろいろと議論が行われていて、検索がしやすいからだ。そして多くの場合学問として扱われているだろうからだ。
必ずしも勉強は学問領域で行わなければいけないわけではない。
しかし優秀な人達が確立した方法論で研究を行い整理して発信しているものから始めるほうがおかしな方向へ行ってしまったり非効率な勉強になってしまうリスクが下げられる。
 
では具体的に⑴⑵⑶のボヤキからキーワードを見つけ出す一例を見ていきたい。
⑴のような状況でなにか勉強しようと考えると、例えばマーケティングを勉強したらいいんじゃないかみたいなことが思いつく。
しかし、そこで立ち止まってアイロニーを使ってみる、つまりよりメタな問題を考えてみる。
この業界の市場規模はどんなもんなのだろうとか、日本の労働環境全体はどうなのだろうとか、そもそもいまのグローバル資本主義とは何なのかとかより大きな視点で問題をとらえなおしてみる。
こうやって生活の問題を大きな視点で俯瞰して見てみる。
そうするとこの業界自体どう頑張っても死にゆくだけじゃないかみたいな考えにたどり着くかもしれない。
もしかすると結局マーケティングを勉強すべきだとなるかもしれない。そうなるといろいろと考えたのは無駄だったのかと思うが、そうとは限らない。
なぜマーケティングを勉強すべきなのかという理由付けが浅いまま、一般的なテキストで勉強してみても多くの場合実際に活かせられるまで深く勉強できない。
強い理由付けとともにマーケティングの中でもこの領域が今の仕事に直結するだろうということがわかって勉強すると実際に活かせられる可能性が向上する。
 
ここでは拡張的ユーモアも活用できる。
似たようなあの業界はどうなのだろう、アメリカの同業界はどうなのだろう、30年前の同業界はどうなのだろうこうやって外の世界を調べると、前に常識が常識ではないことへの気づきのところで述べたように、本質が見えたり、打開策のヒントが見えたりする可能性がある。
 
しかし、アイロニーと拡張的ユーモアには罠があった。
どちらも際限なく続けることができて無限に広がり、結局何を勉強するのか決断ができない。
 
そこで縮約的ユーモア、つまり享楽的こだわりによって決断を行う。
本書では決断についてより深く掘り下げており、それ以降はより具体的にアイロニーとユーモアを用いて勉強をする方法を解説している。
自分の年表を作ってこだわりを分析する方法や、どんな本を読むべきか、どのようにノートをとるべきかなど非常に示唆に富む内容が多い。
ぜひ実際に本書を読んで学んでほしい。
 
 
本書のコアの一部について結構な分量解説してしまったが問題ないだろうか。もし問題あればすぐに削除します。
初めにも書いたが本書の内容と僕の思考が入り混じっているので著者の主張とずれがあるはずだ。
こんなブログ読んで読んだ気にならず少しでも引っ掛かりがあれば本書を手に取って読んでみてほしい。